摩文仁の丘
2009年 06月 23日
写真の丘の向こうに撤退して最後に設けられた守備隊司令部で、圧倒的に攻め寄せてくるアメリカ軍を眼前に、64年前のきょうこの日の未明、沖縄における軍の最高司令官である沖縄守備隊(大本営直轄の第32軍)司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が自決、日本軍は崩壊しました。
太平洋戦争で唯一の地上戦が行われた沖縄で、組織的抵抗を終えたとされているのが本日、6月23日でありますが、牛島中将が自決の前に出した「石や木を持って最後の一人になるまで戦え」と言う訓令のため、その後も壕にこもったり、8月まで住民虐殺が続いたりして、9月7日に日米両軍の司令官によって降伏文書調印が交わされるまで、散発的に戦闘は続いたようであります。というわけでこの日が沖縄戦終結と言えるかどうかについては諸説がありますが、沖縄県は条例で「慰霊の日」と定め、きょうもこの摩文仁の丘では沖縄全戦没者追悼式が執り行なわれ、昨年から新たに判明した戦没者の名前が「平和の礎」に刻まれるとのことであります。
何年か前の7月、まだ丈の低いクハデーシ(モモタマナ)以外に南国の日差しをさえぎるものもない、氏名の刻まれた黒花崗の板碑のあいだをめぐっているうち、「○○○○の次女」とか「○○○○の夫」あるいは「氏名不詳 男」などと名前さえ定かでない記述がいくつもあるのに気づいて愕然とした記憶があります。誕生間もない赤ん坊であったか、婿入りしてきたものの戸籍にはまだ入れられなかったか、いずれにしても生き残った近所の人々の記憶にしか残っていない人も、その存在証明として刻まれているのですね。しかし現在に至っても、沖縄戦における民間人の犠牲者数は確定されていないどころか、ばらつきが大きいのでありますね。歴史教科書でさえまちまちであります。
○大阪書籍「42万の県民のうち、12万2千人が死亡しました」
○日本書籍「犠牲者は59万の県民のうち12万人以上になると推定されている」
○教育出版「59万人の県民のうち、死者が12万以上になり、戦闘は9月7日まで続いた」
○日本文教出版「沖縄戦での死者は20万人を数え、日本軍兵士約9万人のほか、沖縄の一般住民9万人あまりが犠牲になったといわれ」
○扶桑社「一般住民約9万4千人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した」
といった具合です。戦後60年をさらに超えてこの態ですから、板碑に存在さえ刻まれない人たちの霊が安まることはないかもしれませんが、わたくしは東京の端っこで祈りを捧げ、ひそやかに鎮魂の思いを届けたいと考えております。