人気ブログランキング | 話題のタグを見る

古くて新しい事件


古くて新しい事件_d0054076_1628476.jpg

 藤沢周平さんの小説は本棚の目につくところに並べておいて、時間が余分にあれば読み返したくなるもののひとつであります。先週からこの習いにがぜん火がついて、『密謀』『冤罪』『ささやく河 彫師伊之助捕物覚え』『海鳴り』と立て続けに再読(もしくは三読、四読以上)しました。藤沢さんの作品は筋立てにはさまれる自然描写や情景描写がことのほかすばらしく、こんなにすにすごい夕焼けの描写があったのかとか、江戸の町の裏通りのたたずまいがまるで自分が歩いているように感じられたりとか、読むたびに別な角度からの新しい発見があってじつに面白いのでありますね。
 ちょうどこんな時期にあわせるかのように大分で教職公務員の不祥事が明るみになり、多額の現金や商品券がやり取りされたというニュースが毎刻のように流れて、それが小学校や中学校教師の就職にからむ事件だけにやるせない思いでおりました。いったいに公務員の収賄は根深く、一般企業でバブル崩壊とともに一斉に鳴りを潜めた接待や無駄遣い、あるいは厳しい経費節減などまったくどこ吹く風とばかりに、ひそやかながらも堂々と継続されてきたのであります。当事者たちがそれを不思議ともおかしいとも、何とも考えないところに問題の奥深さがあって、記憶に新しい防衛省の守屋という前次官などその好例でした。居酒屋タクシーも同様であります。つい先日のことを記憶に新しいと言うのは情けない話でありますが、大分の例はいま飛び火を恐れる全国の教育委員会や教職者を震え上がらせているのではないでしょうか。

『海鳴り』という小説は江戸中期とおぼしき時代を背景に、人生の果てがほの見え始めた紙問屋の主人と同業の問屋の女房との道ならぬ恋が主題でありますが、不義密通は御法度という時代だからじつに哀切極まる恋物語になって、主人公は人殺しまで犯しながらも新天地を求めて手に手を取って他郷に逃げ落ちていくという、けして明るくはないがそこそこ未来を感じさせてくれる結末に仕立てられています。
 この3月に亡くなったばかりの丸元淑生さんはこの小説中の十行あまりの文章を、「おそらくわが国の小説史に残るであろう比類のない美しさを持っている」と手放しの褒めようであります。さらに常盤新平さんに言わせれば、「藤沢さんの小説のなかでベスト3を挙げよと言われたら、その一冊に『海鳴り』を躊躇なく入れるだろう。ほかの二冊はときによって変ることもあるが、『海鳴り』は動かない。これは恋愛小説のお手本のような傑作ではないかとかねがね思ってきた」とこちらも百点満点。わたくしとておふたかたに異を唱えるつもりは毛頭ありません。
 こうして何度目かの『海鳴り』を読んでいる最中に大分のニュースが流れてきたのでありました。主人公の紙問屋小野屋新兵衛が仲買商から江戸市中に四十七軒しかない問屋に仲間入りするさいのくだりが、ちょうど流れてくるニュースの内容とピッタリだったのであります。そこを引き写してみましょう。
「問屋株を手中にして仲間に加わるために、男たちは熾烈な争いを繰りひろげた。狙われるのは仲間を牛耳る世話役たちであり、奉行所の係り役人だった。表には出せない金が動き、誰それは世話役を料理屋で接待したとか、誰それは金では不足だとみて、女を用意したとかいううわさがささやかれたりした。
 新兵衛はそのときに、もとの奉公先である治吉に口をきいてもらって、世話役の山科屋を頼ったのである。
 山科屋宗右衛門は、料理屋でもてなせの、女を抱かせろのということは言わなかった。ただ金の遣い先をこまかく指示した。そして金さえ持って行けば、新兵衛が余分の口上を言わなくとも済むだけの手配をしてくれたのである。山科屋の指示は適切で、新兵衛はそのときに暗躍した数人の同業を押さえて、首尾よく仲間に加わることが出来たのだった。
 ただし山科屋は、新兵衛がさし出した多額の謝礼金も遠慮なく受け取った。商人らしい割り切ったやり方で、新兵衛は、おまえさんに同情したわけじゃなくてこれも商いのうちだよ、と言われた気がしたのだが、それでも山科屋を徳とする気持ちは変わらなかった。」(藤沢周平『海鳴り』文春文庫版より)

 まるで教育委員会の参事や審議監が作中の世話役の商人や奉行所の係り役人に重なるようではありませんか。子どもを合格させるために商品券を贈った小学校長は、さしずめ主人公の新兵衛といった役回りか。
 藤沢さんはこの小説の連載を終えたあと、次のように振り返っています。
「打明けると、私は『海鳴り』を書き始めた当初、物語の主人公である新兵衛とおこうを、結末では心中させようと思っていた。だが、長い間つき合っているうちに二人に情が移ったというか、殺すにはしのびなくなって、少し無理をして江戸からにがしたのである。小説だからこういうこともあるわけだが、そうしたのはあるいは私の年齢のせいかも知れない。むごいことは書きたくなかった。せっかくにがしたのだから、作者としては読者ともども、二人が首尾よく水戸城下までのがれ、そこで持って行った金でひっそりと帳屋(いまの文房具屋)でもひらいて暮らしていると思いたい」と結末を変えたことを明かしています。なるほど最後にほの見えた明るさは意識して作者が加えたものだったのでありますね。
 大分では逮捕された以外にも、不正合格した現職教員の解雇などもささやかれているようであります。そこは社会の実情に疎い公務員、とりわけ学校という閉鎖された社会にいる教員あるいはその予備軍とたぶん親が引き起こした事件でありますから論外ではあるのですが、どこかに藤沢さんのようなやさしい情が盛れないものかどうか、ない知恵でしきりに考えているのであります。


 
by fuefukin | 2008-07-16 16:28 | 私的評論

日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。


by fuefukin
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31