すっかり忘れた頃に
2007年 06月 01日
さて、ちょうど1年ほど前のこの時期にパソコンで組版作業をはじめたような記憶がありますが、すっかり忘れていた今頃になって、この3月に亡くなったばかりの人を改めて思い出させるものが出来上がって手元にやってきたので、ちょっと紹介します。
セルビア語からの翻訳を、ここやここですでに書いているとおり、亡くなった田中一生さんがおこない、制作をわたくしがおこなったものであります。
そもそもはもう3年あるいは4年ほど前のことでありましたが、この日本語版を作ってあげたいんだけど、とセルビア語の小冊子を見せられたのがはじまりでした。その直前にドブロヴニクを訪れた田中さんは、修道士のゴラン・スパイッチ氏と語り合う中で、日本語版を作って欲しい、あるいは作ってあげようという話になったのだと推察されます。日本からの観光客が急増しているドブロヴニクでありますから、セルビア正教会としてもそうした日本人客用に販売できるものを備え、教会運営の足しにしたいという思惑もあったでありましょう、たまたま訪れた田中さんをアンドリッチやニェゴシュの邦訳者と知って依頼したのでありました。帰国した田中さんが、わたくしに相談をもちかけたというのがことの次第であります。
ぱらぱらとめくって見ると、同じレイアウトでセルビア語版、英語版があるように、本文やキャプション部は墨文字にしてあるので、その部分を同じように日本語にすれば簡単に出来るだろうと返答した記憶があります。問題は訳文の量がどのくらいになるかということで、まあそれは文字サイズを調整すればどうにでもなることなので、最後のレイアウトで工夫出来ることでありました。
宗教用語などもあるので、在ベオグラードの山崎洋さんと訳語についての相談などもしていたようですが、一昨年の暮れに田中さんは癌のために胃の摘出手術をすることになって翻訳の上がりはのびのびになっていました。手術のあと、田中さんを団長にわたくしも参加した「アドリア会」と名付けられたグループが昨年10月にドブロヴニクを訪問することが確定し、それでは訪問時に日本語版が出来上がっているように事前にデータを送っておこうということにして、病後の身で翻訳の完成をすすめていたのであります。そのころは遺著となった『バルカンの心』刊行の話もはじまっていて、文章を発表した雑誌や単行本から選択、コピーなども並行しておこなっていたころです。
表紙折り返しの旧市街地図への日本語や、最後にけっこう面倒なレイアウト作業などもあって、かの地の印刷の事情も皆目わからないので事前に送ることは無理と判断し、昨年10月3日のドブロヴニク訪問時にアウトライン化した日本語の墨版データをすべて揃えてCDに入れ、見本のプリント出力も添え、あいにくスパイッチ氏は留守だったので、田中さんはじめグループのみなさんと一緒に博物館のスタッフに託してきたのでした。
その後、けっきょく生前には間に合わせられなかった遺著の編集制作、はからずも出版記念会のようになってしまった没後の偲ぶ会などがつづいて、そういうデータを作ってドブロヴニクへ置いてきたことさえもすっかり忘れていたつい先週、遺族の元に日本語版『ドブロヴニクのセルビア正教会』が送られてきて、そのうちの1冊をわけていただいたのが上の写真のものであります。
ドブロヴニクを訪れる際には、旧市街オド・プーチャ通り8番地の教会と博物館をたずねて、ぜひこの冊子を手に取ってみていただければ幸いであります。
by fuefukin
| 2007-06-01 13:46