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コスモスの詩人

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 昨日、コスモスについての記述をしたので、ついでにご披露。
 高村光太郎が宮澤賢治の没後「コスモスの保持者」という追悼文を書いているので紹介しておきたい。

 セザンヌは文化の中心巴里から遠く離れた片田舎エクスにひきこもつて一人で絵画に熱中してゐた。彼は別に新しい事を成しとげるといふやうな心構えもなく、ただ絵画そのものの当然の道を追って自分の力の不足をむしろかこち勝であつたくらゐだ。その片田舎の一老爺の仕事が、世界の新しい芸術に一つの重大な指針を与えるほど進んでゐたのは、彼が内に芸術の一宇宙を深く蔵して居り、その宇宙に向かって絶え間なく猛進したからの事である。内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠にいても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であつた。彼の謂うイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。(後略)

 1926年(大15)12月、花巻から上京、神田上州屋に止宿して音楽とエスペラントに精出していた賢治は、20日前後に当時駒込林町で制作に励んでいた光太郎宅を訪問した。光太郎は仕事中で智恵子の看病中でもあったので、機会をあらためゆっくり話をすることを約束したというのだが、実際に面会もしくは面談したかどうかははっきりしておらず、いまだ謎として残されたままだ。いずれにせよ機会があらたまって二人が会うことは永久になかった。6年後の9月、賢治が37歳で急逝してしまったからである。
 光太郎がコスモスと呼んだのは、花のコスモスではない。宇宙のコスモスであるが、秋に満開のこの花を見かけるたびに、ただ『春と修羅』一冊で画家セザンヌと並べて東北の詩人の宇宙を見抜いた光太郎の眼力と賢治の世界を思わずにいられない。
by fuefukin | 2011-10-13 11:08 | 花の写真

日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。


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