写真日誌:旅の写真
2010-08-02T21:19:30+09:00
fuefukin
日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。
Excite Blog
凱旋門 Arch of Triumph
http://fuefukin.exblog.jp/11642379/
2010-07-29T11:21:00+09:00
2010-08-02T21:19:30+09:00
2010-07-29T11:21:05+09:00
fuefukin
旅の写真
この凱旋門が完成したのが1836年の今日(7月28日)のことでありました。アウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、2年前に皇帝の座について絶頂期のナポレオンの命によって建設が始まり、30年の期間を経てルイ・フィリップの復古王政時代に出来上がったというわけであります。この30年間に、ヨーロッパを席巻したナポレオンは敗戦となったロシア遠征(チャイコ大序曲1812年で有名ですね)をきっかけに下り坂を転げ落ちるように負け戦を重ねエルバ島に追放され、百日天下で復活を遂げるもののワーテルローの戦いで完敗、ついには南大西洋の孤島セントヘレナ島に幽閉され1821年、死を迎える。自ら命じて建設させた凱旋門をくぐることができたのは、遺骸が帰国を果たしたさらに20年後だったというのは、まさに歴史の皮肉でありますね。
そんなわけで174年前の今日、凱旋門は完成したわけであります。そこで古い写真を探し出してご覧いただこうということに相成りました。
まず凱旋門の上からながめるシャンゼリゼ通り L'Avenue des Champs-Élysées の夜景。
凱旋門のかたわらに設けられている第一次世界大戦の無名戦士の墓。
ところで第一次世界大戦が始まったのは96年前の昨日のことでありましたね。1914年オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに対して宣戦布告した日で、戦いは燎原の火のごとく広がって、人類史上初の世界戦争になったのはご存知の通り。直接のきっかけは宣戦布告に先立つ1ヶ月前、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公がボスニアの首都サラエヴォでセルビア人民族主義者ガヴリロ・プリンツィプによって殺害されたことに端を発します。サラエヴォ事件と称されるこの暗殺事件の現場をわたくしは二度訪れましたが、左の建物に事件の説明が書かれているプレートがはめ込まれている以外、なんの変哲もないこんな街角であります。
正面の橋が事件後のある期間、プリンツィプ橋と英雄視された暗殺者の名前を冠して呼ばれ、その後以前の名称ラテンスキー橋に戻されたミリャツカ川を渡る橋。ボスニア生まれのノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチ( 1892 - 1975)は川沿いのサラエヴォの高校(ギムナジウム)時代、向かい岸のやや高台にある自宅からこの橋を毎日渡って通学していただろうと推測されますが、のちのサラエヴォ事件の際に、事件関係者と目されて当局に一時逮捕されたこともあったらしい。
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ブルゴーニュの空から
http://fuefukin.exblog.jp/10405134/
2009-11-01T12:18:00+09:00
2009-11-09T07:57:28+09:00
2009-11-01T12:18:53+09:00
fuefukin
旅の写真
真ん中の斜めに走る道路を境にして若干色づきが違いますが、南側は白ワイン種のシャルドネ、北側は主に赤ワインにされるピノ・ノワールの畑ですね。畑中に血脈のように縦横に巡らされた道が古代ローマ時代から営々と継がれてきたブドウ栽培の歴史を物語っているようです。とくに北側中央左寄りのほぼ方形に区切られた一画が、かの有名なロマネ・コンティ社が保有する、わずか2ヘクタール足らずの貴重なピノ・ノワールの畑。ブルボン朝時代、国王ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人との激しい争奪戦の末、1760年にコンティ公爵が手に入れた畑でありますね。
ここで稔ったブドウは丹精されてワインになり、平均すると年に6000本程度、ロマネ・コンティのラベルが貼られて出荷されますが、巷間言われるように「飲むより語られる事の方が多いワイン」の伝説どおり高値で取り引きされ、わたくしたち一般の人間の舌をわずかに湿らせることさえまずありません。一昨年クリスティーズの競売で、1985年産のロマネ・コンティ1ダースがブルゴーニュワインとしては史上最高額の23万7000ドル(1本あたりなんと約2万ドル)で落札されたということでありますから、たかがワインではありませんね。
このロマネ・コンティ、さてどんな味わいなのか、開高健の短編小説にサントリーの会長だった佐治敬三と差し向かいでひと瓶を飲むという一篇があったのを思い出して書棚を探したが見つからない。『ロマネ・コンティ・1935年』という表題の文庫本で読んだ記憶があるのでそのなかの一篇だったのだろう。記憶ではなんだか気の抜けた味だったというような落ちだったような気がするのだが、手許にないので確認しようがない。というよりは同時に収録されていた「玉、砕ける」という短編のほうがすばらしくできがよかったので、そのほうに記憶が引っ張られてしまっているのかもしれない。
以上長々とお読みいただきまことに恐縮でありますが、上の写真は偽物でありました。今朝、ベランダの柿の葉っぱがきれいに色づいていたので、それをお日さまにかざして撮影したものであります。葉脈をみているうちにこんな戯れ言を思いついた次第でございます。写真以外はまことの話でありますので、念のため申し添えておきます。お手間を取らせてまことに申し訳ございませんでした〜。
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秋の色 続
http://fuefukin.exblog.jp/6522467/
2007-11-07T14:18:00+09:00
2007-11-07T14:52:15+09:00
2007-11-07T14:18:56+09:00
fuefukin
旅の写真
写真をクリックすると倍になりますから大きくしてご覧ください。真ん中に燧ヶ岳、左に尾瀬沼、右上に尾瀬ヶ原、その上に至仏山が座しているのがよくわかりますね。至仏山から左へ伸びていく稜線のむこうに堂々と見えるのは上州武尊山。
群馬側から尾瀬沼に入るには三平峠、尾瀬ヶ原に入るには鳩待峠、同じく福島側から尾瀬沼に入るには沼山峠を越えなければなりませんし、尾瀬ヶ原から只見川沿いに下ろうとすると三条の滝が深く落ち込んでいるのですねえ。こうしてみるとじつに尾瀬沼も尾瀬ヶ原も山間に閉じられた別天地であるのがよく理解できると思います。
さて福島県の山のなかの村を走る道路がなぜ群馬県の沼田の名がついているのか、そのわけはつまりこうであります。
現在の群馬県沼田市と福島県会津若松市を結ぶこの道は、群馬側からは会津街道、福島側からは沼田街道と呼ばれ、遠く徳川が始まる時代から尾瀬沼畔を経由して会津と上州を結ぶ重要な交易路でありまして、会津側からは米や酒、上州側からは油や塩・日用雑貨などが人馬の背によって運ばれました。幕末の戊辰戦争のおりには征東軍の会津入りを迎え撃つために、大江湿原に防塁さえ築かれたこともありました。現在では福島側でも会津街道、群馬側でも沼田街道と呼ばれたりしているようでありますが。
もう一度写真をご覧ください。燧ヶ岳の下に白い曲線が見えますが、これがその一部、田代御池と沼山峠を結ぶ林道であります。燧ヶ岳に右下に白く見えるのは御池ロッジのある駐車場です。現在は一般車両の通行は禁止で、尾瀬沼への最短路としてシーズン中は観光客や登山客を乗せるシャトルバスが走っています。
わが国が高度成長期に入った昭和35(1960)年、「尾瀬・只見国際観光ルート」構想が打ち出されました。これは尾瀬沼畔を通る自動車道で、これにつながる奥鬼怒スーパー林道計画はこの年、すでに一部着工されていたのであります。それから約10年ほどのあいだに、「大清水〜尾瀬沼畔〜七入」の車道を国立公園の特別保護地区外に迂回変更することが提言されたりしましたが、群馬側、福島側双方から尾瀬沼畔を狙いすまして道路は徐々に伸びていきました。高度成長のかけ声にのって開発が進み、観光客誘致のために自然保護、環境保全という言葉など一般にはまだまだ聞かれない時代だったでしょう。
環境庁が発足したのはそんななかの昭和46年7月のことでした。初代長官には大石武一さんが就任しました。北海道新聞記者の職を辞して尾瀬沼畔の長蔵小屋三代目を継いだ平野長靖さんは、山小屋経営と自然保護という相反するジレンマに悩みながらも尾瀬沼畔に自動車道を通すことの無謀さを深く憂い、就任したばかりの環境庁長官に道路建設中止を直訴したのであります。環境行政をになう発足したばかりの役所、初代長官という側面もあったでしょうが、いまの政治家と違って大石さんは偉かった。平野さんの話を聞いてただちに、1週間もしないうちに、現地に視察に出かけたのでありました。それを受けてすぐさま「尾瀬の自然を守る会」が発足し、自然公園審議会(現在の自然環境保全審議会)が尾瀬の車道計画の廃止を環境庁長官に答申するなどの動きが活発化し、現在でも尾瀬沼は自動車の排気ガスの洗礼を直接受けずに済んでいるのですね。平野さんはその年の暮れ、東京での会合に出席するため沼田に向かった雪の三平峠で遭難、亡くなってしまいました。わたくしはそのとき高校生でしたがニュースはよく覚えています。没後関係者によって出版された『尾瀬に死す』という本はわたくしに感銘を与え、わたくしと自然とのつきあい方の現在に続く基本のひとつともなっています。
地図を見ればつながっていないこの道がよくわかりますね(縮尺を75000分の1に下げて見てください)。わたくしも自動車の利便さを享受している者のひとりではありますが、自らの足で歩くべきところは歩くという気概を持っているつもりでありますから、不急不要の開発、とくに貴重な自然を破壊する行為には断固として異議をとなえていきたい。
桧枝岐村の秋の色をご紹介するつもりだったのに、なにやら尾瀬の話に筆(キータッチ)がそれていってしまいました。何枚か山村の秋の雰囲気を感じてください。一番下の写真は、上の空からの写真の燧ヶ岳の右山麓(実際は北東)の只見川。向こう側は新潟県になります。
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北への旅 7、恵みの春
http://fuefukin.exblog.jp/5478762/
2007-05-25T10:30:44+09:00
2007-05-25T10:30:44+09:00
2007-05-25T10:30:44+09:00
fuefukin
旅の写真
イトウの産卵遡上行動の観察をしていた4月の連休前のある朝は冷え込んで、氷点下になりました。融雪で水浸しになった牧草地には薄い氷が張りつめ、ところどころに残っている雪や薄氷を踏んで、川沿いを行ったり来たりしながら魚を観察していたのでありますが、陽がのぼって気温が上昇してくると、みるみるうちに氷が水に変化していくのがわかります。
「氷」と「水」という文字は点がひとつあるないだけの違いですが、こうやってみると、隣り合った性質の物体をじつによく現していますね。文字を作ったひとに脱帽であります。
さて、この時期に道北を訪れるもうひとつの理由があります。わたくしにとってはこちらの理由のほうがより割合が高いかとも思われますが、それはずばりギョウジャニンニク! 首都圏でも春になるとホームセンターなどに苗が出回り始めていますが、つい最近まではそんなことはありませんでした。関東あたりでも山地のほうでは、数は少ないもののあちこちに自生地があったようですが、環境変化、乱獲などですっかり姿が見えなくなりました。その稀少価値に目をつけたひとたちが栽培を始め、ようやく軌道に乗って小売店にまで流通するようになったというのが昨今の現状でありましょう。
それにしてもカタクリなどと同じスプリング・エフェメラルでありますから、春一番にほかの草に先んじて生え、いち早く光を取り入れて地下茎に栄養を貯え、花をつけたあとはほかの草木に埋もれてしまいます。その春一番の生命のエネルギーを戴いてしまおうというのでありますから、自然からしてみたら人間というのは存在からして罪悪であるのかもしれません。 森の中をガサゴソうろついていると、こんなギョウジャニンニクをみつけました。たぶん鹿の食痕だと思われますが、春の到来を待ちわびているのは人間だけではないことを如実に教えてくれますね。 エゾエンゴサクの花と山ワサビ。山ワサビはホースラディッシュですね。すりおろしてしょうゆをたらせば、それだけでごはんのおかずになります。チューブ入りのワサビはこれが主原料です。
こうしてイトウを観察し、山の恵みをいただくための毎春の道北詣ではまだまだ続くでしょう。今回は、初めてフェリーを使った北への旅でした。自宅から新潟までおよそ350キロ、新潟から小樽までの航海19時間1200キロほど、小樽から道北までおよそ400キロ、すでに帰りのクッチャロ湖や小樽の様子、船上からの夕日などアップしてありますので、これにて4000キロ近くにおよんだ北への旅の顛末はおしまい。
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北への旅 6、さらなる試練
http://fuefukin.exblog.jp/5436116/
2007-05-19T12:13:00+09:00
2007-05-19T13:07:03+09:00
2007-05-19T12:13:34+09:00
fuefukin
旅の写真
産卵床を掘るにあたって、♂の協力はありません。どうやら♀の専有行動のようであります。ほかのサケ科魚類も同様のようですが。 こうして適度な深さの産卵床ができあがって、機が熟すると♂♀とも大きく口を開き、産卵、放精にいたるわけですが、なかなかそううまくことは運びません。
伐採や林道の建設による土砂の流入などの影響で、上流の産卵に適した場所が極端に狭められていることもひとつの原因かと推測されますが、産卵行動中のペアに単独の♂が割入ってくることがままあるのであります。今回もとあるペアを観察しているときにこの事態に遭遇しました。もとからいた♂は侵入してきた♂を追い払おうと、果敢に戦いを挑みます。あとからやってきた♂も、すきあらばとって代わろうと虎視眈々と狙います。こうして、追い掛けて背に乗って押し退けようとしたり噛み付いたり、ときには全身を水面にさらすこともいとわず、野生の闘争は幾度も続くのであります。 前回観察したときも壮絶でしたが、今回も戦いは何度か続き、一度は追われた♂が一瞬水中から全身飛び出して真っ赤な色を、水というフィルターを通さずに、直接肉眼でみることもできたのですが、ぴたりとシャッターを押したつもりの指先はずいぶん遅く、あとで確認した映像には尻尾しか写っていないというていたらくでありました。情けないでありますな。
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北への旅 5、もうひとつの現実
http://fuefukin.exblog.jp/5412011/
2007-05-15T23:37:00+09:00
2007-05-16T11:09:37+09:00
2007-05-15T23:37:52+09:00
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旅の写真
特に戦後から高度成長期にかけて、日本全国で治水、利水を錦の御旗に大規模な建設が行われてきた。日本のあちこちで、関与している人間の誰一人として検証しようのない、200年に一度の洪水にも対応できる堰だとか土手などという、なんだかとりとめもない途方な話が一人歩きして、正当性が論じられてきた。もちろんそうした公共工事がすべて悪だというわけではなく、人の命よりも魚のほうが大切だというわけでもないが、内水面においては鮭鱒や鮎などの経済魚に関してはまだしも、1本の川を季節によって移動して生活する魚たちの存在は、無視あるいは不当に軽視されてきたのではないかと思われる。その鮭鱒や鮎にしても、人工増殖、移植放流に比重が移り、かくして川は長大な排水路と化してしまったのでありました。
しかし幸いなことに、人びとの環境意識の高まりに呼応するように、バブルがはじける前後あたりから状況は変わってきました。象徴的だったのが21世紀直前の2000年に見直しされ、さらに凍結、やがて計画そのものが中止となった鳥取島根県境に位置する中海の淡水化事業だったろうと思う。あれからたしかに流れは変わった。大規模ダムの中止も検討され、実際にいくつか計画が廃棄されもしましたね。
さて、道北の川すべてに越えられないダムや堰堤が設けられているわけではありません。ほんとうに幸いなことに、中央から遥かに遠く、開発の手から見のがされてきたさいはての北の地だからこそ自然が自然としてあるまま残ってきた幸運もある。それが環境省のレッドデータブック(日本の絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)に入れられたイトウをいまわたくしたちが観察できるわけでもあるのですね。
ほかのサケ科の魚類と違って、イトウの産卵は春の雪融けの時期におこなわれます。毎年のように訪れて観察していますが、たとえば今日見た幾組かのペアが、この川のすべてかもしれないという怖れと、これだけいるのだからもっとたくさんの数がいるはずだという楽観が入り交じって、複雑な思いがします。いずれにしてもいまはもう、北海道の東や北、いやほとんど北に追いやられた絶滅寸前の魚であることにかわりはありません。
釣りという行為も、人間が持つ哀しい性のひとつでありまして、わたくし自身も竿を片手に川べりをうろうろさまよい歩くひとりでありますが、さらにこうした光景に遭遇すると、いやまあなんともはや、∨⊇∴<≒⊥∽&、いうべき言葉を失ってしまいます。
前日何尾か遡上しているのを確認した小さな流れに翌朝ふたたび観察に行ってみると、川べりの雪の上にぱらぱらとイクラが散乱しています。昨日はなかったはずですから、夜間から早朝までの出来事でありましょう。流れで遊泳中か産卵行動中かの♀のイトウを、大きな網かなにかで捕獲した痕跡であります。捕獲されて暴れるうちに、腹からこぼれおちてしまった卵だと推測されます。この朝は氷点下に冷え込みましたので、なかば冷凍状態で雪の上に散らばっていました。
さて産卵直前で捕獲されてしまったイトウのこの後の運命はいかなるものになったでありましょうや。心が痛みます。
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北への旅 4、遡って行くと壁があった
http://fuefukin.exblog.jp/5393782/
2007-05-13T18:53:00+09:00
2007-05-13T19:15:17+09:00
2007-05-13T18:53:28+09:00
fuefukin
旅の写真
さっそく先行していた知来カメラマンと電話で連絡をとって待ち合わせ、近くのダムに向かう。ダム堤体からの放水路に大きな長方形のコンクリートのプールが作られていて、そこに遡上してきたイトウが何尾もたまっているというのだ。 下流やさらに下の原野の沼から産卵のために遡上してきたイトウたちは、ここでストップ、もうこれ以上遡れません。高さ10メートル近くはあろうかというコンクリートの壁の上から、身を乗り出すようにして撮影したのがこれであります。放水路からの落ち口のこのプール、幅10メートル、長さが20メートルほどでしょうか。行き場を失ってこの中をうろうろ回遊し、ときどきゆうらりと巨体を浮き上がらせてわたくしたちを驚かせるのです。
赤信号、止まりなさい、と言われたってそれは人間の都合でありますね。一本の川の源流から下流まで、さらに汽水域、ときには近海までを一生の生活圏として移動する彼らの都合だって、いまは聞いあげたっていい時代でしょう。いったいどうしましょうね、青に変わる可能性のないともりっぱなしの赤信号。
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北への旅 3、利尻富士に会う
http://fuefukin.exblog.jp/5385647/
2007-05-12T15:56:00+09:00
2007-05-13T19:11:22+09:00
2007-05-12T15:56:50+09:00
fuefukin
旅の写真
今回北へ向かうフェリーのなかでつらつらそんなことを思い出していたのは、そのサンフラワー丸以来の船旅だったからだが、まあそれ以前の子どもの頃の迷子からはじまったバカボンド暮らしは、今でも続いているというわけでありましょう。
小樽到着はまだ夜もあけやらぬ4時30分。接岸して船倉に下り、車を出して港を走り出るまで30分ほどかかったでしょうか。あたりはようやく明るくなりはじめます。とりあえず本日の目的地は稚内手前オホーツク側の猿払村。のんびり行きましょうということで、国道5号線を札幌方面に向かうと、やがて銭函駅という標識が見てとれたので、すかさず左折。わたくしはまあ大風呂敷は持っているものの、銭函というものはあいにく持ち合わせてはないので、ひとつ見るだけ見ようという野次馬根性で銭函駅に向かう。 なんということのない田舎の駅であります。屋根のかたちというより駅舎が牧舎っぽくて北海道らしいといえるでしょうか。まだ始発電車から間もない時刻ゆえ、通勤客も通学客もおりません。自転車で駅の売店まで新聞を買いに来たとおぼしきお年寄りが、なにをしに来たかというようにいぶかしげに見るので、おはようとにこやかに挨拶をして車に乗り込んだのでありました。それにしても、こういう田舎の駅にも自動販売機がでんと据えられて、どうにも風景にそぐわない印象を与える。自動販売機(それと電線)をもうちょっとどうにかするだけで日本の風景はまた格段に美しくなるのではないか?!
337号から石狩国道という日本海沿いの231号を北上していく。厚田、浜益、雄冬岬、増毛、留萌、苫前、羽幌、初山別と行くと、どのへんからか天売国道オロロンラインと道の名称が変わって、やがて向かう左前方に利尻富士が海からすっくと立ち上がり、天塩川河口には風力発電のプロペラが列をなして立っているのでありました。
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北への旅 2、タイタニックではないが…
http://fuefukin.exblog.jp/5375445/
2007-05-11T00:15:00+09:00
2007-05-13T19:10:29+09:00
2007-05-11T00:15:37+09:00
fuefukin
旅の写真
さて、船というのはタイタニックの昔からかなり厳しく階級差が付けられていますね。つまり人民平等の現在では料金差でありますが、昔は加えて本当の階級差も入っていたでありましょう。映画タイタニックでは見事にこのあたりが描き出されていて、アッパークラスの食堂やラウンジは当然ながらそのクラスの乗客しか利用できませんでしたね。ブラッド・ピッドふんする二等船客の主人公は招かれない限り出入りできません。貴族の娘ローズの急場を救ったというので食事に呼ばれるのでしたが、「下」との違いに驚くさまをうまく演技していました。驚くとともに不敵に挑戦していく果敢な行動も。まあそこは大ヒット映画でありますから、そういう階級差を越える束の間の恋、それをさまたげようとする階級社会の力、そこに氷山衝突から沈没に至るドラマチックな過程が絡まるわけですから、世の老若男女を涙させ何度も映画館に通わせた理由も分かろうというものでありますな。旋毛曲がりのわたくしとしては、こうしてあらすじを紹介はしたものの、けしてロードショーなどでこの映画を見たわけでなく、ずっとあとになってビデオでみずから見るつもりはなく見たのだと弁明しておきたい。
たぶん秋田沖を過ぎ男鹿半島をかすめて北上しているころだったと思うが、同じ航路を南下して新潟に向かっている姉妹船とすれ違うというアナウンスにつられて右舷デッキに出て撮影したのがこれ。 暗くて揺れているのでよく分かりませんよね。こんな雰囲気だということでお許しを。
今回わたくしが乗ったフェリー船は行き帰りとも同じ規模で、客室のある部分は3フロア、その下に2フロアの車のためのスペースがあるので、つごう5階建てのビルのような感じです。3階にフロントロビー、二等客室と二等寝台の部屋が並び、4階は一等の個室、レストラン、軽食カウンター、売店、風呂など、そして5階にビデオシアターと特等とさらにスイートの個室が並んでいます。4階のデッキに出ると、5階への階段脇に「特等客室ご利用の方以外は御遠慮ください」という控え目な表示があります。 わたくしは特等船客ではありませんがとくに遠慮などしないので、5階にあがってみると煙突のあるこんな光景が広がっていました。広々していてやっぱり「上」の展望いいですね。ブラピのように元警官だかの警備主任に出入りを制止されることもないので、日本という国の今に生まれてよかったかな。 この写真は帰りのときのもので、陸の風景は小樽なので、まだ雪が見えます。
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北への旅 1、出航
http://fuefukin.exblog.jp/5362602/
2007-05-09T10:24:00+09:00
2007-05-13T19:08:55+09:00
2007-05-09T10:24:09+09:00
fuefukin
旅の写真
いつもなら稚内まで飛行機なのですが、仕事の都合で日程がはっきりしなかったため、料金が割安のうちに予約を入れることができず(定価?ならシーズン外れのヨーロッパ往復さえできてしまうほどの運賃!)、ようやく出かける都合がついたものの、さてどうしようかと考えているうち、以前から一度は乗ってみたかったフェリーの利用を思い付いたのでありました。
調べてみると現在のところ、北海道へ向かうフェリーは太平洋側が八戸〜苫小牧、大洗〜苫小牧、名古屋〜仙台〜苫小牧という3航路、日本海側は舞鶴〜小樽、新潟〜小樽という2航路あるというので、大洗からのルートも考えたが、新潟まで直通の関越道につながる圏横道の日の出インターが自宅から10分ほどなので、新潟をチョイス。まだシーズン前だったので前々日でも問題なく予約を入れることができたのでありました。
新潟港はちょうど信濃川河口にあって、高速インターからの道路が港に突き当たる場所には、「左・佐渡航路、右・日本海航路」という案内板があって、その「日本海航路」という文字に、わけもなく旅に出るぞーという感慨がふつふつと沸き上がってくるのでありました。
新潟を出航したおりの携帯からアップしたようすはここに。1万8000トンの船だというので、さほど大きな揺れもなく快適な船旅が楽しめます。船内にはレストラン、軽食のカウンター、売店、飲み物の自販機や、ゲームコーナーなどもあって、ビジネスホテル並みでありますね。ホテルのフロントのような案内所もあって、カウンターのベルをチンと鳴らすと、クルーがにこやかに対応してくれます。なにしろ船内禁煙というのがいいね。
大浴場もあって海を眺めながらお湯につかれますよ。
船首の展望室からはこんな具合に舳先がのぞめます。
つづく
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山の幸づくし
http://fuefukin.exblog.jp/5309111/
2007-05-02T12:29:00+09:00
2007-05-02T13:12:42+09:00
2007-05-02T12:29:16+09:00
fuefukin
旅の写真
連休の初日、昼間はポカポカ陽気でのどかな春でしたが、日が陰ると一気に風が冷たくなり、翌朝は一面真っ白な霜で、まるで冬の朝のようでした。裏山の標高1500メートルくらいから上では雪が降ったようで、下の盆地からも白い稜線が望まれました。さらに標高の高い奥の金峰山や破風山などの奥秩父主脈はまだまだ多くの雪が残っているようであります。
それでも春の太陽ですね、屋根や地面の真っ白な霜を見る見る間に溶かしていきます。太陽の光が屋根にかかる木の陰を追いかけて霜を溶かしていくのがよくわかると思います。
わたくしの大好きな山ウドもちょうど食べごろに育って、待っていてくれたようです。タラノメ、コゴミ、コシアブラ、モミジガサ、カラスノエンドウ、フキ、クコ、アケビなどを天ぷらでおいしくいただきました。冬の間に寝ぼけていた身体の内側を、こうした山菜の苦みやあくでしゃっきと目覚めさせてくれるのも、また新しい春を迎えることができた喜びのひとつでありますね。アルコールがすすみすぎてしまうのが難点ではありますが。
ついでですから霜の朝のくさむらの様子もいくつかご覧いただきましょう。
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イトウの尻尾
http://fuefukin.exblog.jp/5285527/
2007-04-29T18:31:00+09:00
2007-04-30T19:20:44+09:00
2007-04-29T18:31:40+09:00
fuefukin
旅の写真
つづく]]>
帰りました
http://fuefukin.exblog.jp/5268263/
2007-04-27T17:22:03+09:00
2007-04-27T17:22:03+09:00
2007-04-27T17:22:03+09:00
fuefukin
旅の写真
携帯からアップするつもりでできなかった昨日の日本海に沈む夕日をご覧下さい。小樽から新潟に向かうフェリーらいらっく丸からのものです。]]>
小樽運河
http://fuefukin.exblog.jp/5256906/
2007-04-26T08:52:10+09:00
2007-04-26T08:52:10+09:00
2007-04-26T08:52:10+09:00
fuefukin
旅の写真
運河のあたりから土産物店や硝子屋などが並ぶ古い通りを散歩。
啄木が3ヶ月あまり勤務した小樽新聞社のあった跡地は、現在千円土産物ショップ(店内のものすべて千円)になっていました。観光客もなく小雨の中の静かな散歩を楽しめました。
さてこれから港に行って新潟行きのフェリーに乗ります。お天気の予報はあまりよくなさそうで、来る時に望めなかった岩木山や鳥海山はまたも見ることができないかもしれません。期待していただけに残念でありますが、また次回に楽しみが残りました。
海が荒れないことを願うばかりです。
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サクラ咲ク
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2007-03-21T08:33:00+09:00
2007-03-21T11:27:51+09:00
2007-03-21T08:33:25+09:00
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旅の写真
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