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『バルカンの心』

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 表題の本が出来上がり、版元から送っていただきました。著者はすでにここに書いたように、残念ながら3月9日正午過ぎに幽冥界を異にしています。
 そもそもこの本のプランがスタートしたのは昨年の4月のこと。収録する予定の既発表の論考や研究、単行本に収録された解説、新聞雑誌に発表されたエッセイなどのコピー原稿がわたくしの手元に揃ったのはモンゴルでの釣行から帰った6月の末頃だったでしょうか。
 それらの原稿を著者と相談しながら三部構成に分類して取捨選択し順序を定め、さらに入れ替えたり前後させたりして仮決定をし、まとめて文字入力のための入稿をしたのは9月半ばのことでした。その間の8月初旬には著者、版元の彩流社と編集担当のわたくしの三者による打ち合わせがもたれ、目次構成を提示して正式に始まったのでありましたが、その段階では当然のことながら本のタイトルも上梓の日程も確定されてはおらず、希望的には年内にというあいまいなうちのスタートでした。
 この春3月に予定されていた著者の組織した「アドリア会」グループによるバルカンへの旅は、これに備えての検診で癌が発見され、胃の摘出手術のため半年延期されることとなり、9月末から2週間ほどの日程でおこなわれました。わたくしも一足先にウィーンに飛んだあと、ウィーン空港からこの愉快で勉強になるグループに合流し、そのあとの旅程をともに過したことはこのブログですでにレポートしたとおりであります。

(時間切れでまだ書きかけ、つづく)

新刊『バルカンの心—ユーゴスラビアと私—』は版元ドットコムのここで。書店発売は4月4日です。

 承前
 さて、バルカンへの旅から帰ってしばらく、著者の病状は下り坂を転げるようであったようです。たぶん癌の移転によるものだったでしょう、頻発する下痢で外出もままならなくなり、わたくしの知る限り11月下旬におこなわれた「アドリア会」の旅行後はじめての集まりの席に顔を見せたのが年内最後の外出だったでしょうか。築地のがんセンターへセカンドオピニオンのために外出したのは年内だったか、年が明けてだったか。あとは時折駅前の病院に通うだけであったようです。
 旅行に出る前の9月半ばにお願いした文字入力は12月も末にクリスマスプレゼントのようにやってきました。それを見本組みを作って版元の了解を得て、年末年始に全ページ組み上げて400ページを超えるゲラを自宅へ届けたのは松の内が明けたころでした。版元では総ページはいくつになってもと言ってくれていましたが、値段の問題や本としての体裁もあるので300ページ以内に収めようということで、著者とわたくし双方でさらに取捨選択をおこない、ほぼ想定のページ数にまとめあげました。タイトルもこのころ『バルカンの心』というのが浮上してきて、ほぼこれで行こうということになりました。それまでは収録する文の題のひとつからとって『コソボ幻想』というのが著者の考えでありましたが、版元とわたくし両方はそれとなくやんわりとダメを出していました。ちょうどまたこのあと、著者の旧友で本書成立のきっかけも作った在ベオグラードの山崎さんが帰国して語り合うなかで、タイトルを書家の蓮沼泰子さんに頼もうというアイデアが浮上したようです。そこで版元の了解をもらって正式にタイトルが決まったのであります。サブタイトルは著者とユーゴの関係を語るものとして、当初からこれと決めておりました。
 2月に入ってから「まえがき」「あとがき」がファックスで送られてきました。あとから考えたら、これが最後の自筆の原稿になってしまいました。このころになるとさらに病状は悪化し、ほとんど寝たきりの状態だったようであります。そんなところへさらにベオグラードから、旧友の詩人スルバ・ミトロビッチさんの訃報が飛び込んできて、それをうけて詩人の詩を一編追加、「あとがき」の修正という要請が奥様の代筆の郵便やファックスで入ってきます。

 病状が急変して急遽入院をしたのが2月16日のこと。そのときの診断ではあと2週間という見立てであったようですが、翌日病院にうかがうと気分も高揚していたのか意外に元気な様子に、不要な安心までしてしまいました。このときにはもうページも決定し最後の校正を済ませれば校了という段階だったのですが、18、19日と続けて代筆のファックスが入ってきて、さらに「あとがき」を追加訂正し、また写真も組み入れて欲しいという「最後の」要請でありました。写真についてはコピー原稿しかなく品質的に無理で、最初の400ページ余から減らした時点でスペース的に余裕がないとお互いに了解済みのつもりでしたが、病室でいろいろな思いがよぎったのでありましょう、わたくしも一晩考えて、翌日、宣伝用の文章や装丁用の写真、題字の書を持参した折に版元の彩流社竹内社長に1折り(16ページ)増の了解を得て、コピー原稿から使えるものは使って、そのほかは新しく手持ちの写真の中から選び出し、2日間かけて最終の仕上がりページに組み直したのであります。
 そして最終の校正を済ませている間に、さらにファックスで「あとがき」を全部入れ替えたいという指令が月が変わった5日になって飛び込んできました。そのころにはだいぶ意識も混濁してきていたようでありまして、奥様が代筆したその「あとがき」も本のこととはかけ離れたのもので、いまあるものにつなげたりしようのないものでしたので、本当に「最後の」赤字は奥様と相談して残念ながら採用しないことにしました。それにしても、もちろん最後の仕事だという自覚もあったでしょうが、執念のようなものを感じたことでした。

 最終的に本文データ、画像データ、DTP指定などを整理して印刷所入稿のために版元に持参したのは8日のことでした。ちょうどその夕方、表紙などの装丁案が出来上がってくるというので自宅宛に送っていただくようにし、2案ある表紙デザインの意見を聞いて選んでもらったり、写真を入れた最終ゲラを見てもらうために翌日病院にうかがうことにしました。
 その9日朝、心臓の機能が低下しているというので病院からの呼び出しを受けて奥様が駆け付けたあと、版元からの宅急便を受け取ったお嬢さんが病室へ届けて開けてみせると、カッと目を見開いて見届けたそうです。そのあと間もなく、正午過ぎに息を引き取ったとのことでありました。わたくしが病室を訪ねたのはそのあとの14時過ぎのこと、すでに遺体は病院の霊安室からさらに葬儀所へ移されたあとでした。
 
 わたくしもこれまでに200冊以上もの単行本、あるいは月刊雑誌、季刊雑誌の成立に関わって、それぞれに思い入れのある本があり、愛着の号もありますが、このたびは死と競争しながら結局生前に間に合わせられなかった悔悟も含めて、本書の成り立った前後を紹介して著者への哀悼としたいと思う。長文失礼しました。
 著者を偲ぶ会は4月15日に開かれます。
by fuefukin | 2007-03-30 10:13

日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。


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