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バルカンへの旅 13. ドリナの橋を渡る

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 ルートE761は国境を越えてボスニアに入るとドリナ川の支流ルザヴ川沿いに下っていきます。このルザブ川がドリナ川に合流する場所に築かれたのがヴィシェグラードの町で、ふたつの川が交わるやや上手のドリナ川本流に美しい11のアーチの橋脚を持つ石の橋が架けられて両岸を結んでいるのであります。
 この地がオスマン‐トルコの領地であった1571年、時の宰相ソコル・メフメド・パシャの命によって建築が開始され、5年の歳月を要して完成されたということでありますから、それから実に4世紀を越える長きにわたってこの内陸の要衝の地の往来をになってきたわけでありますね。
 現在は下流にダムができてこのようにゆるやかな水面でありますが、それまでは「ドリナの流れは、ほとんどが、峨々たる山なみの間を縫って走っている。せまい山峡に深い谷間がつづき、両岸は切り立った斜面である。……この(ヴィシェグラード)あたりでドリナが見せる水流の曲折は、ひどくめまぐるしい。両岸の峻険な山のつらなりは、ひしと寄りあって、一個の山塊のように見える。そこから川がほとばしり出てくるのだ」(松谷健二訳)とノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチが代表作『ドリナの橋』の冒頭で描いたように、急峻な流れであったようであります。
 橋が架けられるまでは、この急流を渡るのに小舟の渡しに頼っていたそうです。橋の建設を命じたソコル・メフメド・パシャは、ここヴィシェグラード近郊のソコロヴィチという小さな村の生まれで、10歳の少年の時、イエニチェリ軍団に徴兵されてコンスタンチノープルへ送られ、やがて出世して大宰相に上り詰めて歴史に名を残したのでありますが、いわば拉致されて岩だらけで危険なドリナの急流を小舟で渡った折の不安な切ない体験が、のちに橋の建設をすすめさせた契機になったのだと、アンドリッチは小説の中で語っています。
 ちなみにイエニチェリ軍団とは、オスマン帝国において15世紀から制度化された軍隊組織で、被征服地のなかでも特にキリスト教徒の居住地から、5年ごとに10歳から15歳くらいの、健康で美しく、頭のよい者を選び、首都でイスラム教徒としての訓練・教育を受けさせ、帝国軍人としてスルタン(皇帝)に仕えさせるというもの。なかには去勢されて後宮で皇帝に仕える者、高級官僚としてや政治支配層に入る者も出たそうでありまして、実存したメフメド・パシャはその好例でしょう。
 アンドリッチは2歳で父を亡くし、当時オーストリア領だったボスニアのトラヴニクの生地を離れ、母とともにヴィシェグラードにやってきます。そのころ住んでいた家を訪れました。
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 橋を渡って左岸の川からやや入ったところにあります。幼少年期をこの家で過ごしたアンドリッチは、毎日ドリナに架かる橋を渡り、ルザヴ川のほとりにある小学校に通ったそうであります。橋の中央にあるカピヤと呼ばれるテラスは少年アンドリッチの格好の遊び場になったでしょう。橋の工事の邪魔をした水の精、カピヤの下の橋脚の中にあるとされる部屋に住んでいる〈黒い男〉のエピソードなども作中にふんだんに描かれます。
 こうして橋がじつに身近にあった少年が、長じて400年にわたる橋の年代記とも言うべき『ドリナの橋』という小説を書き上げることができたのも、至極当然の結果であったわけでありますね。
 はるばる日本からやってきたわたくしたちは、橋のたもと、ロッティカ・ホテルという旅籠兼居酒屋があった場所のカフェで、ドリナの橋を望みながら小説の幾節かを読みました。
by fuefukin | 2006-12-07 12:36 | バルカンへの旅(2)

日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。


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