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ウルトラマリンノ底ノ方ヘ(3)

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 数年前、成田からウィーンに向かうオーストリア航空機内から撮影した足尾の山々。左端に足尾の町が半分切れて見えます。季節は9月でしたからまだ緑濃い時期であるはずですが、写真中央に崩壊した崖のように茶色に見える部分、まさにこの山肌が足尾銅山による銅精錬時の排煙や、精錬によって発生した亜硫酸ガスの作用で草木が壊滅し禿げ山になった部分であります。
 翼の真下に見えるひと山越えた中禅寺湖や周辺と比べると違いが歴然なのがはっきりお分かりのことと思いますが、これでも国による緑化事業や、つい先日亡くなった立松和平さんも助力をしていた「足尾に緑を育てる会」はじめ関係する人々の植林努力によって、ようやく回復の兆しが見え始めたころの写真です。和平さんとは幾度もお会いしていますが、恵比寿のご自宅で足尾の森や故事の森についてお話ししたことが思い出されます。今月27日に青山葬儀所で偲ぶ会が開かれるとのことなので末席に連なろうかとも考えたのですが、先約もあるので離れた場所からご冥福をお祈りしたいと思っております。

 さて、話は130年ほどさかのぼります。京都岡崎の代々庄屋をつとめる家の生まれで、生家は没落したものの商才に恵まれ、維新前後は京都小野組の番頭をつとめて生糸の買い付けなどで巨利を挙げ、やがて澁澤栄一という大きな後ろ盾を得て鉱山経営に乗り出そうとするのが古河市兵衛、のちの古河財閥の創始者であります。
 古河市兵衛が、志賀直哉の祖父である志賀直道を共同経営者として、江戸末期から明治にかけて採掘量が落ち込んで閉山寸前だった足尾銅山の買収にあたったのが明治10(1877 )年のことでありました。買収から4年後には大鉱脈を掘り当て、その後も続けて有望な鉱脈が発見され、またたく間に日本を代表する銅山に急成長し、一時は日本の銅生産の四分の一まで占めるようになったのでありました。
 しかしこの急成長が一方では悲惨な因果となって周辺に影響を及ぼしていく。はじめは精錬時の煙に含まれる亜硫酸ガスとその作用による酸性雨で近辺の山は禿げ山と化し、木を失い土壌を失った山地は上の写真に見るように次々と崩壊していったのであります。明治22年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となり、隣接する久蔵村、仁田元村も前後して同様に廃村と追いやられる。下流では渡良瀬川から取水する水田や、洪水後流出した土砂が堆積した水田での稲の立ち枯れ、魚の大量死などという被害が続出する。台風などの天災も加わって、下流域では度重なる洪水と鉱毒水の侵入に悩まされることになるのでした。とくに渡良瀬川が利根川に合流する直前の谷中村あたりは、思川、巴波川という中河川も加わって、洪水の常襲地帯であったのでした。
 そこで時の政府は明治35年、鉱毒を沈殿させるために遊水地建設を計画し、いくつかの候補地の中から最終的に選択されたのが谷中村でした。すでに流域農民による押し出しと呼ばれた陳情(いまでいうデモ)が幾度もなされ、田中正造による国会への「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」提出、さらに天皇への直訴もありましたが、政府と栃木県は谷中村買収を進め、明治39年には藤岡町への合併というかたちで谷中村は廃村に至るのでありました。
 現在においては鉱毒問題の原因企業は足尾銅山であると歴然としていますが、当時の政府の見解といえば、被害の原因は試験調査中であって一層鉱物の流出防止の準備をはかるべしというものであって、あいまいに結論を先延ばしにする物言いはいまのお役人と変わりありませんねえ。日清から日露に至る富国強兵、殖産興業の国策が背景にあって足尾の銅生産を減少もしくは中止させる訳にはいかない事情もあったでしょうが、時の政府の権力者であった睦奥宗光と古河市兵衛の姻戚関係(陸奥の二男が古河の養子に)もあったと指摘する荒畑寒村の著書もあるのであります。けっきょくこうした政官企業の関係は戦後の水俣や神通川、さらに場面が変わっても米軍基地の収用や騒音問題などまで引きずられてきたのでありますね。
ウルトラマリンノ底ノ方ヘ(3)_d0054076_10262067.jpg 廃村とされたあとも反対派住民を中心に堤内に16戸が残留していたが、堤防を切られたり家屋を破壊されるなどの暴力的な強制収用を経て、大正6(1917)年には残っていた住民すべてが堤外に移動し、谷中村は旧の文字を冠して語られるようになるのであります。堤内にまだ残戸があったころ、谷中村を訪ねた伊藤野枝の「転機」という作品も読めますから興味のある方はクリックしてどうぞ。タイトルの通り、社会運動に対する女主人公の意識の変化を描いた小説であります。
 さて、谷中村そのものは明治21年の市制町村制によって内野、恵下野、下宮の3村が合併して成立し、内野の資産家であった大野家から孫衛門が初代村長の任にあたりました。葦原のなかに残る谷中村史跡、一段高く盛り土された場所に大野孫衛門屋敷跡と村役場跡が隣り合って残っていますが、おそらく自宅の一部が村役場だったのだろうと推測されます。二代続いた村長の家に生まれた三代目の一人は四郎と名付けられましたが、のちに自ら逸見猶吉と名乗って詩を書きはじめるのでありました。
(まだまだつづく)
by fuefukin | 2010-03-12 10:44 | 文学散歩

日常の延長に旅があるなら、旅の延長は日常にある。ゆえに今日という日は常に旅の第一歩である。書籍編集者@福生が贈る国内外の旅と日常、世界の音楽と楽器のあれやこれや。


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